1)1952ー1954  DKW MEISTERKLASSE '50
1951年に大阪でVANを創立してから最初の社用車が、2ストロークで2気筒エンジンのDKW(ドイツ)というんだから驚きだね。一体何処から手に入れたんだろう。DKW(デーカーヴェー)という車は創始者のアウグスト・ホルヒが第一号車を完成させたのが1901年というから、長い歴史のある会社なんだけど、いくつかの会社が合併して後にアウトウニオン、そして現在のアウディへと発展してきたわけだ。我々日本人が直接DKWに接するようになったのは第2次世界大戦後のことで、戦争で灰燼と化したドイツでいち早く復活して、1950年にマーケットに送り出したのが、この石津謙介氏の乗っていたマイスタークラッセというモデル。当時はまだ日本の国産車は殆ど使い物にならなかった時代でこのDKWはタクシーとしても結構な台数が街を走っていたっけ。石津御大の車ももしかしたらタクシー上がりだったのかも知れないね。

2)1954ー1956 DKW SONDERKLASSE '54
1955年にVANが東京に進出してきた時に買ったのがDKWが53年に発表したモデル、ゾンデルクラッセだったという。この車は2ストロークで3気筒896CC/36馬力のエンジンをフロントに積んだフロント・ドライブの車でマイスタークラッセの2ストローク2気筒で684CC/23馬力のエンジンからみれば、かなりのパワーアップといえる。このエンジンは55年に容積を996CCへ拡大して38馬力となり、3=6という名称が加わった。これは2ストローク3気筒は4ストローク6気筒のエンジンに匹敵するパワーを持つという自己宣伝的な意味あいを持つものだ。それと、この車のもうひとつ変わったところは、フリーホイールといってアクセルから足を離すとクラッチが切れて、車は惰性で走っているのにエンジンはアイドリング状態になるというもので、エンジン・ブレーキは全く効かないんだよね。燃費に世界一シビアなドイツ人らしいアイデアなのかなぁ。それにしても石津先生、余程このDKWが気に入ってたのかね。スタイリストの御大のことだから、当時ポピュラーだったフォルクスワーゲン・ビートルに似ていながら、ちょっと違うというところが気に入ったんだろうな。

3)1954ー1955  FORD CUSTOMLINE 2-DOOR HARDTOP '53
個性の固まりのようなDKWから次の車としていきなりアメ車にいっちゃうというのも凄いね。50年代初頭のフォードは日本では憧れのアメリカ車の代表格だったわけだけど、このカスタムラインは最もベーシックなモデルで、アメリカでは比較的低価格の実用価値の高い車としてよく売れたらしい。石津御大はこの車を54年ごろ大阪で手に入れて、大阪で使っていたとのことだけど、車の色は黒と地味ながら結構目立ったろうね。何しろトヨタの初代クラウンがやっと発売された頃だもの。2ドアのハードトップ・クーペなんてカッコ良かったと思うよ。当時のVANはまだ本社機能が大阪にあって、アイビー・スタイルというファッション用語を使っていなかったらしいけど、石津先生の頭の中にはいつもアメリカがあって、その豊かなアメリカのライフスタイルを服飾ファッションだけでなく、乗る車や、住む家や、使う電気製品までも含めたトータルライフとして捕らえていたということなんだね。

4)1955ー1958  NASH RAMBLER 2-DOOR HARDTOP '53
大阪でフォード・カスタムラインに乗っている頃、東京支社で使う車としてDKWゾンデルクラッセの後釜にナッシュ・ランブラーという見るからに派手な車を選んだのは、いかにも石津さんらしいね。これには親父ゆずりの車好きの3人の息子たちの意見もかなり強く入っていたらしい。このランブラーという車は、アメリカ車の黄金時代ともいえる50年代から60年代にあって、珍しくコンパクトなサイズで、日本の狭い道路では乗りやすい車だったろうね。丸っこくてコンパクトで、洒落た2ドア・ハードトップというのは、当時の日本では目立ったろうな。背中にしょったタイヤが何とも粋だね。この頃のアメ車のサスペンションは特にソフトでフワフワした感じで、石津先生これで大阪まで行った時、途中の悪路でスプリングが1本折れちゃって立往生したことがあるなんて云ってたけど、45年前の国道1号線はまだ砂利のところがあったんだよね。時代を感じるなぁ。

5)1958年ー1964年  FORD FAIRLANE CONVERTIBLE '57
ナッシュ・ランブラーの後にもまだアメリカ車が続くんですか。そういえばこの車に石津先生が乗ってる頃に俺は先生と知り合ったんだな。というよりも次男の祐介君とヒョンなことで知り合いになり、彼が先生の目を盗んでこのオッ派手なフォードのコンバチに乗って俺達を拾い、みんなで江ノ島あたりまでドライブするのが楽しかったね。式場壮吉君やミッキー・カーチスなんかもいて、何とも目立つグループだったなぁ。こんなでかいオープンカーで銀座なんか流したらまるでパレードだね。石津先生どんな顔して乗ってたんだろう。銀座にミユキ族なんてのが出てくる前の話になるのかな?あの頃にこんな車に乗って石津先生がミユキ通りなんか流したら、もう大変だったろうね。みんなに取り囲まれてとても走れたもんじゃなかったろうな。そうそう、第1回目の日本グランプリ・レースを見に黒須としゆき氏なんかとこの車でスズカまで行ったんだっけ。何か夢のようだね。