馬場 : くろすさん今日は。お久し振りです。くろすさんは本職のメンズ・ファッションを凌ぐ程のジャズ通と伺っていますが。
くろす : いやー、お久し振り。うん、僕は本当はジャズ・ミュージシャンになりたいと思った程のジャズ好きでね。今日は「真夏の夜のジャズ」で懐かしいニューポート・ジャズ・フェスティバルが見られると聞いて、ワクワクしながら来たんだよ。
馬場 : この映画は58年のニューポート・ジャズ・フェスティバルを、当時アメリカで最高のファッション・フォトグラファーといわれていたバート・スターン氏が映画に撮ったもので、その洒落たカメラ・ワークも見どころの一つになっています。
くろす : 確かにカメラ・ワークといい、編集といい素晴らしいね。40年余り前、映画館で何回見ただろう。
ウワッ、頭から格好いいシーンだね。これジミー・ジュフリーだろ。後ろでバルブ・トロンボーン吹いてるはボブ・ブルックマイヤーだね。画面いっぱいのフレーム・ワークが素晴らしいね。さすがファッション・フォトグラファーの大御所だけあるねぇ。
馬場 : この頃(1958年)のジャズ・ミュージシャンは今と違ってステージではちゃんとした服着てますね。
くろす : うん、この2人同じ服着てるからユニフォームなんだろうけど、この綿ギャバのスーツと白シャツ、黒ネクタイの組み合わせは実に洒落てるね。夏の昼間の屋外ということで、フォーマルなダーク・スーツではなく、こんなカジュアルな雰囲気のスーツにしたんだろうね。今のミュージシャンはくだけた服装ほどカッコイイと思ってる節があるけど、僕はこのくらいドレスアップしてる方が好きだな。
馬場 : 確かにそうですね。あ、モンクが出てきましたよ。ファンキーといわれた彼でさえ、今と比べるとかなりキチンとした服着てますね。ネクタイまで締めてる。
くろす : それでもちょっと異様なムードだね、この先生は。他の出演者がみんな何となくアメリカ東部のトラッドっぽいスタイルなのに、モンクは今のソフトなシルエットに通じるものが少しあるね。黒人独特のセンスなんだろうな。
馬場 : ジャケットのことで思い出したんですが、ニューポート・ジャケットというのがVANから出てましたね。あれはこのニューポートが名前の出どころですか?
くろす : そう、その通り。あれはね、4つボタンのダブルのジャケットでね。名前をつけたのは僕だよ。あの頃アメリカの音楽情報誌でメトロノームというのがあったでしょう?ダウンビートなんかの競争誌の。あれにこのニューポート・ジャズ・フェスティバルの記事が出ていて、確かサッチモ(ルイ・アームストロング)が4つボタン・ダブのジャケットを着ていたんだよ。それで思いついてこの名前にしたの。あの頃VANでは毎年の展示会で発表する新製品には名前をつけることにしててね、このニューポートとかトレーナーとか、スイングトップとか。VANがつけた名前がそのまま一般的な呼び名になっていったものは沢山あるんだよ。
馬場 : Tシャツなんてのもあの頃から急にアウターウエアとして着られるようになったんですものね。
くろす :  そう。それまでは割と下着感覚だったからね。
Tシャツに力を入れようという時、石津社長が「オールマイT」なんてコピー考え出して悦に入ってたの思い出すなぁ。
馬場 :  へえー、洒落てますね。社長自らコピーなんか考えてたんですか?
くろす :  あの頃は僕らみんながコピーライターみたいで、思いついたらどんどん広告なんかに使っていたもんだよ。何やっても面白くてしょうがない時代だったな。
馬場 : あ、いよいよアニタ・オデイ女史の登場ですね。
くろす : ひえー、粋だね。この登場の仕方がいいね。帽子といい、白い手袋といい、ヴォーグのファッション・ページ見てるみたいだね。カメラのバート・スターンの面目躍如たるものがあるね。アニタ・オデイといえば、彼女が日本に来たとき、有楽町に当時あったヴィデオ・ホールに聴きに行ったもんだ。日本のミュージシャンの一流どころがバックやったんだけど、みんなピリピリしちゃって、ちゃんと乗れないの。アニタ女史が業を煮やして、西条孝之介だったか、杉原淳だったかのうしろに回って、ネジ巻く真似なんかして観衆を喜ばせていたのよく憶えてるよ。
馬場 : 本当にファッション・センス抜群ですね、このアニタ女史は。ファションといえば、バーミューダ・ショーツなんかもアメリカではこのニューポート辺りが一番よく似合うところですね。
くろす : そう。シアサッカーのジャケットにバーミューダ・ショーツでもうキマリだね。ほら、そんなスタイルが一番似合いそうなのが出てきたよ。ジェリー・マリガンだ。ここではごく普通のジャケット着てるけど、なんかダブダブだね。マリガン先生痩せてるから余計目立つね。この何年か後日本に来た時は格好よかったよ。黒と白のシア・サッカーの上着なんか着ててね。
馬場 : ジェリー・マリガンも当時日本でも人気がありましたね。
くろす : ところがね、日本でのマリガンのコンサートはこの映画「真夏の夜のジャズ」との抱合せでね。マリガンの人気だけでは持たないとでも思ったのかね。もっとマリガンの演奏聴きたいと思ったもんだよ。当時はプロモーターもそんな感覚だったんだね。
馬場 : それはちょっと驚きですね。そんな時代もあったんだ。話は変わりますが、ボタンダウン・シャツなんてのもこの頃から急に流行ってきたんでしょう?
くろす : そう、アイビー・ルックの中心アイテムともいえるのがボタンダウン・カラーのオックスフォード・シャツで、この頃のアメリカのファッション雑誌GQやなんかに盛んに出ていたもんだよ。アメリカでアイビー・ルック宣言みたいなのがメンズ・ファッション雑誌に出たのが1954年で、日本でいうMFU(日本メンズファッション協会)みたいな組織がメンズ・ファッションのテーマとして発表したのがアイビーだったわけ。ボタンダウン・シャツはご存知のブルックス・ブラザースが20世紀の始め頃に既に発売していたんだけど、このアイビー宣言で急に日本や他の外国にも伝わっていったようだね。ボタンダウン・カラーはフルロールといわれるあの独特のカーブを出すのが難しくて、さんざん苦労したもんだよ。
馬場 : ダイナ・ワシントンが出てきましたね。彼女若い頃はなかなかチャーミングだったんですね。ダイナ・ワシントンといえば、くろすさんがボスとしてやっていたKENTのテレビ・コマーシャルに使われていましたね。
くろす : そう。あの頃僕はもうKENTを離れて、ということはVANを辞めて独立してたんだけど、でもあのコマーシャルは僕も好きだったし、あれでダイナ・ワシントンが日本でリバイバルしたって聞いたよ。
馬場 : その通りです。あの選曲がよかった。"WHAT A DIFFERENCE A DAY MAKES"の入った彼女のレコードの売上げがぐんと上がったんですよ、あの時。
くろす : おっ、遂に登場、サッチモおじさんだ。すごい迫力だね。もうこの人が出るだけでアメリカ人は熱狂するんだな。大した貫禄だよ。ジャック・ティーガーデンとの共演というんだから、もう極め付けだな。この頃のアメリカのジャズ・シーンで一番広いファン層をもっていたのは何といってもこのサッチモだろうね。みんな大騒ぎじゃない。
馬場 : いやー、実に楽しかったですね。この「真夏の夜のジャズ」はいつ見ても素晴らしいですよ。音楽を題材としたドキュメンタリー映画としては出色ものですね。
くろす : ところでこのニューポート・ジャズ・フェスティバルはその後どうなってるのかね。
馬場 : 1954年にニューポートで始まって、71年まで続いて、その後72年からは場所をニューヨークに移して、セントラル・パークやリンカーン・センター、カーネギー・ホールと次々場所を移して開催されました。82年には遂に日本にやって来て、斑尾高原で「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン斑尾」として10年も続いたんですよ。今は「JVCジャズ・フェスティバル」に引き継がれた格好になってます。くろすさん、今日は楽しいお話を沢山聞かせてくださって本当にありがとうがざいました。またジャズに限らず、楽しいお話を聞かせてください。

というわけで、「啓ちゃんのエンターテイメント天国」の第1回はニューポート・ジャズにまつわるお話でした。さて、次回は何のお話にしましょうかね。お楽しみに。