アウトドア・スポーツといえば今でこそ誰もがよく知っている言葉だがこのアウトドアという概念が一般化してからまだ30年ぐらいしか経っていない。無論それ以前からアウトドア・スポーツはあったのだが、それは本格的な登山であったり、重装備に身を固めたトレッキングであったりと、誰もが参加できる一般的なスポーツやリクレーションとはかけ離れた専門的なものと考えられていた。では一体現在のようなアウトドア、多分にファッションを意識したライフスタイルとしてのアウトドアという概念はいつ頃から出てきたものなのだろうか?
20世紀の中頃以降、世界の若者達のライフスタイルをリードしてきたのはアメリカであった。1960年代初頭のビートニクしかり、そのすぐ後に登場したヒッピーしかり、第2次世界大戦が終わった後も朝鮮戦争やベトナム戦争などをかかえていつも不安な日々を送っていたアメリカの若者達は、反戦運動や新しい文化活動をするに際して常に連帯感を深めるためのユニフォームとして、ジーンズをはき、髪を伸ばし、髭をはやした。
これがやがて若者達の風俗となり、ヨーロッパや日本にも伝わったのである。ベトナム戦争が終わって反戦運動の矛先を失ったアメリカの若者達のあいだに生まれたのが健康のためのスポーツであり、自然保護やエコローをベースとしたアウトドア志向であった。ジーンズの後スポーツ・ウエアが世界を席巻し、さらにアウトドア・ウエアがヘビーデューティなウエアとして日常的に着られるようになった。1970年代中頃から日本中に旋風を巻き起こし今に至っているアウトドア・スポーツとギア(用具)を語る時、その草分けとして忘れることのできない一人の男がいる。その男とはいまや映画プロデューサー、俳優、映像作家等と巾広く活躍している油井昌由樹氏である。当ボタンダウンクラブ・ホームページのSPORTSセクションの初回はこの油井氏に登場願い、日本に於けるアウトドア・スポーツの黎明期について語っていただこうと思う。油井氏は当クラブの賛助会員でもあり、今後度々このホームページにもご登場願うことになっている。

石津(以下BDCと略す):油井さん、今日はお忙しいところへ押しかけてすみません。今下から上がって来るとき、スポーツトレインの店の前を通って来たんですが、お店まだやってるんですか?

油井:


BDC:
油井:


BDC:




油井:


いやぁ、あの店開いてもう30年になるんですが、近頃忙しくてなかなか面倒見きれなくてね。
いま倉庫みたいに使ってるんですよ。
アウトドア関連のものは卸しとネット販売はやってますけどね。
ネットといえば、このオフィスなんだかパソコンの機械だらけですね。
えぇオレすっかりインターネットの世界にはまっちゃってて、ここにいる時は夕陽評論家としてのオレのホームページをいじったり、他の人のを見たりしてパソコンの前に座ってること多いですよ。
やっぱり時代なんですね。少しでも時間があれば、アラスカ辺りで釣りでもやってるんじゃないかというイメージありますけどね。なかなかそうもいかないか。ところで僕はかねてから油井さんは日本のアウトドア・スポーツの草分けの一人という印象を強くもっていて、とりわけアウトドアのためのギア(ウエアと用具)を日本に紹介したということでは最も早かったんじゃないですか?
えぇ、多分そういうことになるでしょうね。この下にスポーツ・トレインを開くまでは、この日本ではアウトドア用品といえば神田のニッピンとか銀座の好日山荘といった登山の専門店か、上州屋のような釣り道具の専門店に行くしかなかったわけで、ウエアは銀座のチロルでスキーウエアやアルペンスタイルのウエアなんかに人気があったぐらいのものでしたよね。

BDC:
油井:



BDC:

油井:



BDC:



油井:



BDC:
スポーツ・トレインのオープンはいつでしたっけ?
1972年です。この店は元はティムコという釣り道具店でオレは客としてよく行ってたんですよ。それを居抜きで譲り受けて、釣り道具はそのままでこれにオレがアメリカで集めてきたアウトドア用品を加えてオープンしたんです。
へぇー、そうだったんですか。アウトドア用品てどんなものだったんですか?例えばブランドなんかで云えば。
LL.ビーンとかエディバウワー、オーヴィスといった巾の広い商品構成のブランドや、コールマンのキャンピング用品、 コロンビアやノースフェイスのウエアなんかもありましたね。
いまや押しも押されもしないブランドのものばかりですね。エディバウワーは今と違ってキャンプ用品や小物などのバラエティが豊かな時代ですね。ノースフェイスも共に今では日本の大企業が乗り出して大分様子が変わりましたが。
その他オレアメリカのGIが好きだったんで、沖縄まで軍用のコールマンをさがしに行ったもんです。71年だったかな?沖縄が返還される時そんな米軍の放出品がわんさと出たんですよ。そんなものも店においてました。
私もきれいな海が好きで、沖縄にはよく潜りに行きましたが、嘉手納基地の周辺には米軍の放出品の店が沢山あって、一度入ると面白くてなかなか出られなくなったもんです。
油井:


BDC:
油井:









BDC:



油井:
そう、店の前にいきなり飛行機のプロペラなんかが置いてあったり、コックピットの中にあるメーター類や何かわけのわかんない様な物がところ狭しと並んでいたりして、見てるだけで楽しかったなぁ。
それで、スポーツ・トレインをオープンするきっかけは何だったんですか?
オレたちの少年時代はアメリカのGI連中が何でもカッコよかったんですよ。1970年代の初め頃まではオレは鎌倉辺で波乗りの板削ってたりしてたんですけど、ベトナム戦争が終ってからは赤坂周辺からGI達の姿が消えてしまったんですよ。でオレそのGI達を追いかける気分もあって、世界一周の旅に出ようと先ずヨーロッパへ向かったんですが、最初の寄港地アラスカのアンカレッジで早くも予定外のことが起きちゃってね。アンカレッジは給油のための着陸だったんですけど、飛行機が高度を下げて地上のものがよく見えるところまで来ると、沢山ある湖の周りの岸辺近くに色とりどりのきれいなものがいっぱい見えるんですよ。
よく見るとそれがみんなフロートをはいたセスナ機だったんです。それ見たとたん、「わーっ、こりゃ降りなきゃいかん。どうしてもそばまで行ってあれを見たい」と思って、アンカレッジで飛行機降りちゃったんですよね。
あ、それ僕(石津)も見ましたよ。1970年ぐらいだったかな?VANのポスターの撮影でアラスカに行った時、アンカレッジでフロート付きのセスナをチャーターして近くの湖へ釣りのシーンの撮影に行ったんです。エア・タクシーって呼んでましたね、あちらでは。本当に気軽にチャーターできるんで驚きましたよ。
そうです。そういったオレたち日本人は過去に経験したことのないワイルドなアウトドアの生活が目の前にあって、そのどれもがオレの目にはとてつもなくカッコイイものに見えたんですよ。
BDC:

油井:
それで、アンカレッジで何日か過ごしたんですか?
えぇ、もう見るもの聞くもの何でも面白いものばかりで特にアラスカの地に根ざしたアウトドア用品の店なんか興奮するものばかり。手当たり次第に買いまくりましたよ。店自体がそれまで見たこともない程のスケールで、オレの目にはとてもファッショナブルに感じられるウエアやグッズがめいっぱい並んでるんですから。靴なんかすぐレッドウィングのワークブーツに履き替えたし、ダウンベストを着込んでワクワクした気分になったものです。この時の印象がスポーツトレインにつながっていったんでしょうね。何しろ500坪、1000坪というスケールのアウトドア・ショップがざらで、ただでかいだけでなく、店内のグラフィック・デザインがすごく洒落てて、大きなバナーが天井から下がっていたり、壁には分かり易いサインが出ていたりと、その後の日本の大型ストアがとり入れた要素があちこちにありましたね。
BDC:


アメリカでアウトドアの生活が若者の間に熱病のように広がっていったのも、ちょうどその時期でしたね。僕もその時代はジーンズのメーカーにいたので、コロラドのデンヴァーやカリフォルニアのヨセミテなどに取材に出かけては、アウトドア・ウエアに身をかためた学生や、アウトドア・ショップのショーウインドーに並んだウエアやグッズ等の写真を撮りまくったもんです。1975年ぐらいからですかね、日本にもアウトドアのブームが来るのは。 
油井:



BDC:


油井:
そうでしたね。電車に乗ると通学中の学生達がみんなダウンパーカ着て、背中にバックパック背負って、その中に教科書入れていたりしたのは、アメリカのキャンパススタイルをそのまま取り入れたものでしたね。
日本の学生達のキャンパス・スタイルがあれほど劇的に変ったことは曾てなかったですね。カバン持たずにみんな背中に背負ってるんですから。
今ヨーロッパも含めて世界中でファッションとなっているバッグを背中に背負うスタイルは元を正せばこのアウトドアのバックパックから来ているものですからね。今では女性の間でもすっかり定着してますね。
BDC:


油井:
えぇ、プラダやシャネルといったスーパー・ブランドにも必ずこのリュック型のバッグがありますものね。話は戻りますが、アラスカで飛行機降りちゃってからはどうなったんですか?
その時はいてたベルボトム・ジーンズ脱ぎ捨てて、ストレートでヘビーなジーンズにはき替えて、ダウンベストにワーク・ブーツといういでたちで、意気揚々とヨーロッパへ回ったんですが、ヨーロッパでは何処へ行っても「お前そのブーツ何処で買ったんだ?」とか「そのダウンベスト、何処で手にいれた?」とか聞かれるんですよね。もう、得意になっちゃって鼻高々ですよ。「これだ、この店やろう」とその時心に決めたんですよ。アメリカの若者達が発信したアウトドアのムーブメントが世界中で受け入れられることがこの時確信できたんです。それでまたアメリカへ戻って、これぞと思うものを買い集めて、行く時1つだったバッグが4つに増えてましたよ。
BDC: それで、冒頭のスポーツトレインのオープンの話にもどるわけだ。僕は当時四谷から青山を抜けて品川まで毎日車で出勤してたんですが、スポーツトレインの前を通る度に気になってしょうがないわけですよ。「日本にもこんなに楽しい店ができたんだ」という思いで見ていたんです。ちょうど我々もジーンズつくりながら、それに合わせる周辺商品を探っている時で、アメリカのあちこちでネタになるものを集めていた時期でした。1974年頃になってトップスを全てアウトドア・ウエアでいくと決めて、こんなポスターつくって打ち出したんです。大当たりでしたね。ジーパンのメーカーなのに1シーズンでダウンベストとダウンパーカ合わせて5万着も売っちゃったんですから、自分たちで驚いてました。勿論スポーツの専門メーカーはその何倍も多くの数量を売ってましたがね。ともかく日本中の若者が男女を問わずアウトドアスタイルに染まってしまったかの様でしたね。
油井:



その通りでしたね。お陰でスポーツトレインも順調にいき、日本中からいろんな問い合わせがきたものです。いつの間にやらアウトドアの権威になっていて、LL.ビーンやノースフェースなんかが日本に本格的に進出する時なんかに、オレのところにどこと組むべきか相談に来たりしたもんです。その後エディバウワーやエイグルなども進出してきて、日本にも巨大なアウトドア・マーケットができ上がったわけですね。
BDC:
油井:




BDC:
油井さんはその後どういった活動をされてきたんですか?
スポーツトレインも永年やってきましたが、オレ個人としては乗馬が好きで、旅が好きで、ものを書くのも好きで、夕陽評論家を名乗って楽しそうなことだけやってるつもりです。20年ほど前に黒沢監督の「影武者」に出て以来、映画俳優としての仕事が次々ところがりこんできて、その他に映像とイベントのプロデューサーの仕事などもやってるので、本職は何かと聞かれても自分でも答えられないんですよ。夕陽評論家というタイトルがいちばん好きですね。
なるほど、夕陽評論家か。何だかのんびりしていて、いいなぁ。
というわけで、スポーツ・セクションの第1回は日本のアウトドアの草分け、油井昌由樹氏にご登場いただきました。次回をお楽しみに。