西へ西へとひた走る
アメリカ合衆国の南海岸のニューオルリンズに達した我々は再び車首を西に向け、次の目的地グランドキャニオンを目指して出発した。南部の気だるい退屈なドライブの後、今度はテキサス平野の気の遠くなるような直線のハイウエイをアクセルを踏みっぱなしで走ることになる。ダラスを経由してメキシコとの国境の街エルパソを通り、ニューメキシコ州に入ったところで思いもかけぬ雪に見舞われる。テキサスやアリゾナといった南西部の地域では雪などとは無縁と信じていた我々はいささか慌てた。
雪はアッという間に吹雪きに変り、我々の車のいささかひ弱なワイパーでは間に合わなくなった。ヒーターも殆ど効かなくなり、デフロスターから出てくるエアも全然温度が上がらない。足の先はジンジンと痛いぐらいに冷えきり、やがてフロントグラスが凍って花模様が現れはじめる。その霜を手の平でこすりながら前方に目を凝らして恐わごわ進んでいると吹雪きを透かしてわずかに見えていた前方を走る車がクルッと横を向いて止まった。こちらも慌ててブレーキを踏む。スピードが出ていなかったので、車はやや斜めを向きながら前の車のすぐそばで止まった。よく見ると前の車にはアメリカ人のおばあちゃんが1人で運転していて何が起こったのか分からないような顔でキョトンとしている。やがて気を取り直してギアを入れると、その車はそろそろと向きを変えて走り出した。同じことがまた起こって追突でもしたら大変なので我々も恐る恐る超低速でついて行く。しばらくすると吹雪きは嘘のように急に晴れ陽がさし始めた。やれやれである。前の車も我々の車もスノータイヤなしで何とかこの苦境を凌いだことになる。相当な年のあのおばあちゃん、きっと後で家に帰ってから危なかったあの1件を家族に大袈裟に話してるに違いない。雪が止んで陽が射し始めると気温も上がり冷えきっていた車内にも再び暖かいエアが入り始めた。マツダクーペはリアエンジンだから、ヒーターからの暖かいはずのエアも長いパイプを通って前の吹き出し口に達する頃にはすっかり冷えてしまうのだ。
空冷のリアエンジン車のヒーターは極寒の地では殆ど効かないことを思い知らされた。フロントガラスの内側に霜がつくのには閉口したものだ。
吹雪きがやっと晴れて道路も乾いてきたので、ヒーターの具合を点検しようとジャッキアップしてみたら、車の底いっぱいに氷が張り付いていた。
グランドキャニオンのスケールにビックリ!
ニューメキシコ州からアリゾナ州に入り、あの有名な歌「ルート66」で唄われたルート66を走ってみようということになり、北へ北へと車を進めているうちについにルート66の道路標識を発見。しかしそのルート66はその当時で既にインターステート40というアメリカ大陸を東西に結ぶ大動脈に吸収されていた。しばらくこのインターステート40兼ルート66を西に向かって走る。歌にも出てくるフラグスタッフの街からグランドキャニオンに向かって伸びているハイウエイを北上し、グランドキャニオンのビューポイントと書かれた地点に達すると我々は車から降りて眼前に広がる一大パノラマに息を呑んだ。写真である程度は知っていたがそのスケールは想像をはるかに越えていた。しかも飛ばされそうな強風が谷から吹き上がってくる。身を切るような冷たい風だ。あまりの寒さに震え上がり、見物もそこそこに車に引き返す。コロラド川沿いに何ケ所かのビューポイントがあり、その度に車を止めてはその絶景に見愡れたものだ。この侵食は何万年かかってできたのだろうか。自然の力の恐ろしさに今さらながら感心することしきりであった。
天橋立のまた覗きならぬグランドキャニオンのまた覗きとシャレてみた。
道程最後の目的地ラスヴェガスはまだか
グランドキャニオンを見終えた我々の次の大きな目的地はギャンブルとエンターテイメントの歓楽地ラスヴェガスだ。学生の分際で、しかも大学巡りの旅の途中で悪徳の街ラスヴェガスに寄るなんてもっての他と云われはせぬかとの心配も多少はあったので、大学側に届けていた旅程にはラスヴェガスは省かれていた。今まで真面目にやってきたのだから、最後ぐらいは許されるだろうと勝手に決めて我々はいろんな期待をこめて一路ラスヴェガスを目指した。地図で見ればグランドキャニオンからラスヴェガスまでは大した距離ではないように見えたのだが、これがなかなか遠かった。行けども行けども砂漠のような荒野が続く。あまりの単調さに、アクセルペダルも床まで踏みっぱなしだ。ということは車の限界速度で何時間も走ったことになる。これではエンジンがもたないことぐらい気がつくべきだった。ラスヴェガスの街がはるか遠くに見えはじめると、我々の気持ちはさらにはやり、アクセルを踏む足にもさらに力が入る。街の姿がかなり大きく見え始めたころ、私石津の車のエンジンからカラカラと異様な音が出始めた。「ヤバイ」と思ったが最早手後れ。車は止まることはないものの、スピードはみるみる落ちてまるで歩くような速度になってしまう。しかしこんな砂漠のような所で止まるわけにはいかない。何とかラスヴェガスの街に辿り着きたい。そんな祈るような思いでそろそろと今度は車を労るようにして進んで行くと、やっと街のはずれに到着。メカ担当の犬飼君がキョロキョロと自動車修理工場の看板を探し始める。「あったあった」。やけに古ぼけてはいるが、まぎれもなく車の修理工場らしきものの前に出た。早速そこのオヤジさんに見てもらう。そのオヤジさんは見たこともないちっぽけな車に目を白黒させていたが、やおらスパナをとりあげてエンジンカバーを開けにかかる。やがてここと見当をつけたバルブを外してみて、そのオヤジさんが救いの一言を放った。「このバルブはフォルクスワーゲン・ビートルのとそっくりだ。多分それを少し削れば合うと思うよ」。これには我々一同歓声を上げた。何でも直さずにすぐ部品を取り替えてしまうアメリカの工場で,見たこともない車のパーツを他の車のパーツを改造してつくってやろうという奇特なオヤジさんがいるなんて。2日間待てというオヤジさんの言葉に感謝しつつ工場を後にしてモーテル探しを始める。
適当なモーテルを見つけてチェックインをすますと我々は直ぐに街にとび出した。目指すは当時のラスヴェガスを代表する有名カジノたち、フラミンゴ、リビエラ、サンズ、デザートインといったところをくまなく探訪しようというわけだ。しかしギャンブルにはあまり縁がなく金もない我々は最初のフラミンゴで3ドルづつスロットマシンに使っただけで切り上げ、ただ見て回るだけに止めようということにしたのだが、ここで意外なことを発見して大喜び。というのはこれら有名豪華カジノには広いカジノホールの脇には必ずギャンブルの合間に客が一息いれるバーがあり、そんなバーでは大抵バンドやシンガーが出ている。これがまた素晴らしくリビエラのバーにはなんと当時既にジャズ界のスターだったサラ・ヴォーンがでているではないか。早速カウンターに陣取った我々は1杯2ドルのウィスキーを手にしてステージの最後までねばることにした。手の届きそうなすぐ近くで唄うサラ・ヴォーンを2ドルで聴けるのだ。ラスヴェガスは素晴らしい。今のようにすっかりディズニーランド状態になってしまったラスヴェガスは、当時ギャンブル以外には殆ど意味のない享楽と悪徳の渦巻く街で、全米いや全世界から一獲千金を夢見て人々が集まってくるところだったが、一方でアメリカのエンターテイメントが大好きな人には例えギャンブルに興味がなくてもパラダイスのように素敵なところだったのである。
1960年代初期のラスヴェガスはギャンブルのみが目当てで一獲千金を夢見る客が押し寄せていた。
1990年代になってラスヴェガスはファミリーを対象とした一大テーマパークと化した。日本からもギャル達が押し寄せている。