(最終回)
アメリカ一周旅行中のこぼれ話(その3)
L.A.での出発前の1週間は興奮の内に
1961年9月1日、横浜港を出て11日目に目の前に忽然とアメリカ大陸が姿を現わした時の興奮は今も忘れない。カリフォルニアの海岸を遠くに眺めながらしばらく南下するとロスアンジェルスに隣接するロングビーチの港に入港する。数時間待つと我々がアメリカ1周用に船に積み込んだマツダR360クーペがクレーンで降ろされ、保税倉庫に保管される。日曜日だというのに倉庫には税関の係官が待っていてくれて、すぐに通関事務をしてくれるという。我々は大感激してすぐさま屋根にとりつけるルーフラックを組み立てたり、バッテリーのターミナルをつないだりする作業にとりかかる。キーを回すとエンジンはすぐさま回りだす。ガソリンは殆ど抜いてあるのだが、タンクの底に少し残ったガソリンでガソリンスタンドぐらいまでは走れそうだ。港に着いたその日に車で街に乗り出せるなんて何て話のわかるお役所なんだろうと一同感心することしきり。日本のお役所なら多分2〜3日は留め置かれるところだろう。
早速最初の宿泊所に予定していたLA(ロスアンジェルス)の中心部に位置するYMCAに向かって車を走らせる。YMCAはアメリカ中どこの街に行
っても必ずあるのだが、最初のL.A.で早くも我々の宿泊計画に変更を余儀なくされることになろうとは思いもしなかった。YMCAはその殆どが都市の中心部にあり、我々のように車で旅をする者にはきわめて不便なことに気がついた。パーキングがないところが多いので駐車料が馬鹿にならないのだ。地元の友人のアドバイスで2日目には街中のモーテルに移動する。L.A.のようにだだっ広くて車がなければ生活できないところには街中でもいたるところにモーテルがある。モーテルといっても当時日本にも現れ始めた怪し気な目的をもったものではなく、車で商売をしているセールスマンやファミリー旅行者のための低料金のホテルなのである。モーテルはパーキングがただなのですこぶる好都合だ。さて、宿が決まった我々はアメリカでのドライブに慣れるために早速L.A.の街に乗り出す。一般道路は何の問題もないので、もっぱら街中を縦横にはしるフリーウエイへの乗り入れの訓練をする。ちょっとスリルがあったが直ぐに慣れる。勿論合流時にはアクセル全開である。
LA港の保税倉庫内で早速ルーフラックの取り付けが始まる。エンジンは1発でかかった。11日間ぐらいの航海ではターミナルをはずしてあったバッテリーは殆んど衰えていない。タイヤの空気圧もOK.これならすぐに走り出せそうだ。
LAのダウンタウンにあるYMCAからビバリーヒルス近辺のモーテルに移る。この中級のモーテルには屋根つきのガレージがついていた。1961年当時のアメリカはまだ大型車の時代で、この巨大な車は多分シボレーインパラだと思われる。アメリカ車にはあまり詳しくないので間違っていたらご容赦願いたい。殆どの大型車(といってもアメリカではスタンダード・セダンと呼ばれていたものだが)がこの車のような派手なフィンをこれ見よがしに尻尾につけていた。比べてみても分かるように車巾は我々のクーペの倍ほどもある。こんな車と高速ですれちがったり追い抜かれたりしたら、どんな風圧がくるのだろうかとちょっと恐くなった。
モーテルに落ち着くと早速付近の街へくり出す。ビバリーヒルズ一帯は家並みが大きく道路もゆったりしている。渋滞もなく走りやすい。このあたりには有名な映画俳優たちが沢山住んでいると聞いているので、誰かに出くわさないかとキョロキョロしながらドライブする。そんなことよりも我々が慣れなければならないのは右側通行ということで必然的に止める時は右側の歩道の縁石に寄せることになるわけである。日本国内でのドライブと大きく違うことは、アメリカでは州によって交通規則がまちまちということである。カリフォルニア州では右折するときは原則的に左から車が来ないときはいつでも右折できるのである。じっと止まって信号が変るのを待っていると、後ろからブーっと警笛を鳴らされる。 車を止めてキョロキョロしていると古めかしい黒いセダンが止まり、中から出てきたおじさん達が我々の車のそばへ来て珍しそうに眺めまわす。どこの車だ、から始まって何してる?とかアメリカでこの車売ってるのかとかいろいろ聞いてくる。そして1ガロンで何マイル走るのかと興味津々の様子だ。大体1リッターで23キロぐらい走るから1ガロンでは50マイル走ると答えるとヒューっと口笛を吹く。ガソリンの安いアメリカでも燃費には関心が意外と高いらしい。この後我々はそれこそアメリカ中でこの質問を浴びることになる。ちょうどこの頃にフォードマスタング等の小型車が現れ始めたのだ。
LAの郊外には我々の母校上智大学当局から紹介されていたUSC(南カリフォルニア大学)がある。我々の最初の公式訪問地がこのカリフォルニア大学であった。ここでは学生部の担当生が大学内を案内してくれたり何かこちらで困ったことがないか親切に聞いてくれる。1番感激したのは訪問の翌日彼が1日を割いて我々をディズニーランドに連れて行ってくれたことだった。今から40年以上も前のこの頃には日本にはまだディズニーランドはオープンしていなかったので、その楽しさに感心することしきりであった。
USCのキャンパスは広大で建物にはこの地独特のスペインから強く影響を受けたものが多い。ミッション風の建物はLAの明るく乾燥した空気によく似合う。
テレビのドラマや映画を通じてしか知らなかった60年代のアメリカの街を、実際に自分達の運転で走るのだから見るもの全てが面白く、夜もなかなか泊まっているモーテルに帰る気になれない。先ず有名なハリウッド大通りを流してみる。アメ車のコンバーチブル(いま風に云えばカブリオレか)に大勢若者が乗って大声を張り上げながら通り過ぎるかと思えば、ドライバーズシートに2人の男女がしがみつくように抱き合ったまま運転しているシーンなども見える。ここは夜も眠らない。
夜も大分更けて空腹を感じた我々はかねてから憧れていたドライブイン・レストランに行こうということになりハリウッド大通りをキョロキョロとさがすうちに、目指すそのドライブインはあった。円形のガラス張りの建物をグルッと取り囲んで放射状の車寄せがあり、頭をその建物に向けて車を止めると、中から見ていたウエイトレスが注文を聞きに出てくる。この彼女がまたキュートなのだ。何故カッコいいウエイトレスたちの写真がないのか残念ながらわからない。やがて注文のハンバーガーをトレイに載せて持って来ると、車のドアに引っ掛けてくれる。シートに座ったまま食べられるというわけだが、珍しいだけでそれほど快適ではない。中に入って広いテーブルでゆっくり食べたほうが休まると思うのだが。
ハリウッド大通りからちょっと横町に入ったところに、ジャズファンなら誰でも知っているドラマーのシェリーマンの店があると聞いていたので、見当をつけて行ってみると何とシェリー・マン本人が出ているではないか。狂喜した我々は直ぐに車を止めてそのジャズクラブに入ろうとしたら、入口で止められ年令を証明できるものを見せろという。念のためパスポートを持っていたので無事に入れたのだが、余程子供に見られたのだろう。シェリー・マンといえば当時のジャズ界では誰もが認めるトップドラマーで、その夜もトランペットのコンテ.カンドーリやピアノのラス・フリーマンといったウエストコーストジャズの一流どころが付き合っていた。ジャズファンにとっては夢のような顔ぶれである。
上陸地ロスアンジェルスでの10日間はアッという間に過ぎて、急ぎ足でアメリカの日常生活を体験した我々は、いよいよこのLAを後にしてアメリカ合衆国1周の旅に出発することになる。LA出発の日我々はお揃いのユニフォームに一応身をかめ、親しみを覚えるようになったLAに別れを告げた。ここへ帰って来られるのはいつことやら。いや、それよりも果たして帰って来られるのだろうかという不安でいっぱいであった。旅のあらましはこのレポートのNo.1からNo.6で報告してあるので、興味のある方はご覧下さい。