ナッシュビルから南へ針路をとりアメリカ深南部へ
楽しい出来事が待っていた
ナッシュビルでグランドオールオープリーを満喫した我々は後ろ髪を引かれる思いで再び車を真南に向け発進。アラバマを抜けニューオルリーンズを目指してひた走っていた時だ。ハイウエイで1台の車が我々を追い抜き様、窓から手が出て脇に止まれと合図する。何事と思いながら車を路肩に寄せて止めると、若くて可愛らしい女学生とおぼしき女の子たち4〜5人がばらばらと車から降りてきて「あんた達何やってんの」と聞く。我々が旅の目的を話すと、もっと話を聞きたいから自分達のソロリティ(女学生クラブ)に寄っていかないかという。話に聞いていたソロリティとやらが見られるのと、何よりアラバマ大学に通うという彼女たちの可愛さにひかれて2つ返事でOKをして、彼女たちの車について行った。
アラバマ州タスカルーサという町にあるアラバマ大学に通う彼女たちは正にカレッジガールの典型だ。
やがて車はいかにも南部らしい古びてはいるが堂々とした2階建ての邸宅の前に止まり、我々は中に招き入れられた。1階は大きな広間で12人のメンバーたちのリビングルームだという。彼女たちの寝室は2階にあって、そこは男子禁制とのこと。当然我々には見せてくれなかった。夕方の食事前の一刻、アメリカ南部の素朴で可愛らしい女学生たちとの語らいは誠に楽しいものであった。食事に呼ばれたわけではないのでそろそろ腰を上げかけた頃、思いがけないことが起こった。我々チームの中で1番おとなしい宮田君がつと立ち上がると部屋の隅にあったピアノに近寄り、何とショパンを弾き始めた。なかなかの腕前である。1曲終わると大喝采でアンコールが入り、「では」と彼が2曲目に選んだのはおいとまに相応しくこれもショパンの「別れの曲」だった。曲も半ばにさしかかったころ、感極まったのかリンダという名の子(写真前列左端)が泣き出してしまった。後ろの方で聴いていた寮母が宮田君に向かって曰く「あなたって悪い人ね、女の子を泣かすなんて」。彼は真っ赤になって下を向いてもじもじしていた。こうして思いがけなく楽しい時間を過した我々は、お互い名残りを惜しみつつ初めて見たソロリティを後にしたのであった。
Sorority(ソロリティ)とは:アメリカの大学に通う女子学生たちが大学内にある寮ではなく、何人
かが集まって街の中にある家を借りて共同生活をおくるというもの。8人〜15人ぐらいの規模が普通のようである。1軒のソロリティには必ず1人の寮母のような管理人がいて、メンバーの女学生のよき相談相手になったり、時にはボーイフレンドとの交際に目を光らせる恐いお目付役だったりする。
家の家賃や寮母の人件費等をメンバーで負担するので学生寮に入るよりは費用がかかり、従ってソロリティのメンバーは比較的裕福な家庭の子女に限られるようだ。
この女学生たちのSorority(ソロリティ)に対して、男子学生たちの学生クラブはFraternity(フラタニティ)とよばれる。
ニューオルリンズを目指して一路南下
アラバマを出てからは南を目指して再び車を走らせたのだが、特別に変ったこともなくやがてかの有名なニューオルリンズに到着。
ニューオルリンズの街はアメリカの他の都市とは全く違ったいかにも植民地風といってもよい様相を呈している。フレンチコーターと呼ばれる古い地区はどの家からもバルコニーが道路にせり出し、細い鉄の柱がそれを支える。鉄の柱やバルコニーの手すりには細かいレースの模様がついているものが多い。ムッとする南部の暑い昼さがりは街中眠ったように静まりかえっているが、ひとたび夜ともなると街の中心部は喧噪を極める。そうニューオルリンズはデキシーランドジャズの本場なのだ。バーボンストリートと呼ばれる繁華街にはデキシーランドジャズを聞かせるクラブがめじろ押しに連なりそれぞれの店からにぎやかなジャズが聞こえてくる。しかし懐の寂しい我々子供みたいに見える学生なんかあまり相手にされない。ちょっとデキシーを聴いて、早々にモーテルに引き揚げる。
アメリカ深南部のけだるいドライブ
ニューオルリンズを早々に切り上げて我々は今度は車を西に向けてスタート。ルイジアナからミシシッピー、アーカンソーと南部諸州の単調なドライブが続く。高い山が殆どなく平坦な景色にややうんざりしながらドライブしていると、突然ミシシッピー川の雄大な流れが目に飛び込んできた。左右を見回しても橋がない。一体どこからこの広い川を越えればいいんだろうと思っていると直ぐに謎が解けた。渡しの船着き場に出たのだ。渡しといっても車も運ぶのだから結構おおきな船だ。道路から水に浮かんだ乗り場に乗り入れそのまま船の中へと車を進める。やがて船は桟橋を離れて河の中程へとゆっくり進むと、ゆるやかな流れを計算しながら向こう岸の船着き場目指して近付いていく。こんな田舎までやって来る日本人なんてめったにいないのだろう。同乗の旅行者や仕事でこのフェリーを使っているらしい人たちから好奇の眼差しを浴びる。1961年当時南部の一部地域で我々は実際にガソリンスタンドなどのトイレのドアに「WHITE」と「BLACK」と表示してあるのを目撃して、やっぱり人種差別はまだ残っているんだと思い知らされたものだ。しかし黄色人種に対しては聞いていた通りあからさまな差別はなく、乗り物でもレストランでも全く不便を感じることはなかった。とはいえ40年以上経った今こんな状況はアメリカ中どこへ行ってもももう見ることはあるまい。